ケアカレナイトの終了間際、ひとりの生徒さんが教室に駆けつけてくれました。「間に合わなくてすみません」申し訳なさそうに背中を丸める彼女。約束を無下になどしない彼女がケアカレナイトを欠席したのには、よほどの理由があるはずだと感じました。
「仕事ができるってなんでしょうか…?」そう、問いは始まりました。
彼女は有料老人ホームで働いて2年目の介護職。本人曰く仕事の覚えはゆっくりで、最初は先輩職員の何倍もの時間をかけなければ、ひと通りの仕事ができなかったのだと言います。
それでも、1年かけて努力を重ね、少しずつ少しずつできるようになり、今では決められた時間より少しの余裕をもってケアプランに指定されたケアを終えられるようになってきました。利用者さんの好みや得意なことも持ち前の観察力により蓄積され、ようやくできたほんの少しの余裕を、ご利用者さんに喜んでもらえることに使えるようになったと嬉しそうに語ります。花が好きな利用者さんであれば外に咲く桜を見てもらおうとカーテンを開け、ほっとしてもらうひとときが持てるようにしたり、話し好きなご利用者さんであれば、手を休ませ隣に座りじっくりと話を聞いたり。
彼女にとっては有意義に思えるそういった時間、ふと周りを見るとかたや彼女よりもケアを早く終えた先輩職員は、休憩室で職員同士雑談を繰り広げ過ごしていることに違和感を覚え始めたのです。
「決められたプランを早く終えることができる先輩職員は“仕事ができる”。失敗してばかりな自分は“仕事ができない”のですね…」ぽつりと言った後、涙が止まらなくなった彼女にかける言葉を必死に探しました。
“はやくてなんぼ”の考え方が染みついている介護現場は、まだごまんとあるはずです。決められた時間内でいかに多くの決められた業務がこなせるか、それができる人が“仕事ができる”人。初めのうちはその業務ですらできず必死になり、できるようになり、余裕が生まれると“仕事ができるようになった”と勘違いする人が現れ始めます。
私自身、おこがましくもそう思った時期がありました。今考えると、恥ずかしくて顔から火が出そうな過去です。あっさりとその勘違いに終止符を打てたのは、単純に楽しくないと気づいたからです。失敗を励まし、可愛がってくれたご利用者さんに「最近はあまり話さなくなったわね」と寂しそうに言われたり、「様子はどうだった?」と先輩職員に尋ねられてもご利用者さんの顔色すら思い出せないことに気付き、ぞっとしたのです。
いくら業務を多くこなしても、そこに会話もなく人間同士の関わりが持てないのでは、私にとっては介護の仕事の喜びも楽しさもありませんでした。今日も、明日も1年後もご利用者さんに喜んでもらえる介護をすることが私にとっては“仕事ができる”介護職です。そうありたいと願い、まだまだ修行中です。
「喜んでくれているご利用者さんがいるなら、それが一番の答えだと思いますよ」
そう彼女に声をかけましたが、それは私にとっての“仕事ができる”とは何かを考えたときに出た返事です。彼女にとっての“仕事ができる”とは何かは、彼女自身が考えて答えを出すしかないのでしょうね。「これでいいのだろうか」と真剣に考え悩むのは、介護の仕事に対して真面目であるがゆえ。その姿は、美しいと思います。
(影山)